みそ誌

刺繍と絵画の二人組-misomiso-がお送りします

塩田千春『魂がふるえる』

森美術館での塩田千春の展覧会に行ってきました。2008年に大阪中之島国立国際美術館で『精神の呼吸』展を観て以来のファンです。

 

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彼女は生と死、存在と不在という普遍的なテーマを扱って制作してきた。持ち主のいないトランク、履く人のいない靴、誰も座っていない椅子、弾き手がいないピアノ。。これらは裏を返すとある人が持ち歩いたトランクで、履き古された靴、誰かが座っていた椅子、そして何人もの奏者がこのピアノで音楽を奏でたという存在の跡ともいえる。そこに今は誰もいないことが「存在からの不在(つまり死)」の印象を強く与える。さらにその不在のオブジェクトを糸でがんじがらめに結びつけ合い、その糸が空間全体を埋め尽くすことで「個人」を超えた「集団」の不在感で展示室が満たされる。彼女が一貫して取り組んできた深刻で重苦しいテーマを複数の大規模なインスタレーションとオブジェ、スケッチや紹介映像で一気に駆け抜ける展示になっており見応え十分。知ってる人も知らない人もわざわざ足を運ぶ価値のある展覧会なので是非。

 

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それにしてもたくさんの人が来館していて驚いた。場内の大部分が写真OKで来場者を楽しませていたことは動員には貢献しているんだろうけれど僕は企画側のミスだと思う。塩田千春の作品は観て楽しい幸せいっぱいの作品ではない。静かに空間そのものを味わい重いテーマを咀嚼する場だ。そこは僕たちが生活している俗世から膜を隔てた向こう側の世界だし、そうした非日常の世界のままでいい。写真を撮ることはこちらの側に作品を引きずり出して日常に並置してしまうような行為だと感じた(といいつつブログ用写真をちゃっかり撮らせていただきましたが、、 

 

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ただ写真問題は些細なことで、陳腐さの根本的な原因は作品に対する僕の受け止め方が変わってきていることだろう。作品が意味と直接的に結びつきすぎているように感じるようになった。その明快さがキャッチーで10年前の僕は惹き込まれたんだろうけど、今の気分はもっと形や色彩の面白さによる興奮、言葉にし難い感覚に作用するようなものが観たい(要はブログに書きにくいもの?それはそれで困る。。)帰り道にペロタン東京で観たJOSH SPERLINGの小さな展覧会が良かったので機会があれば何か書こうと思う。ペロタンは森美のすぐ近くなのでついでにどうぞ。ペロタンペロタン。

 

塩田千春に関して驚いたことがある。彼女が精華大学で村岡三郎の助手をしていたと紹介があった。これはぜんぜん知らなかった。村岡三郎といえば鉄や塩を使った彫刻の日本における先駆者であるが、僕にとっては親戚のおじさんだ。幼い頃の僕は毎年夏休みになると滋賀の山の上にある村岡のおっちゃんのアトリエで過ごした。だだっ広い作業場の隅っこのテーブルとソファで僕らはごはんを食べていて、その作業場の真ん中にはわけのわからない鉄の塊やら妙な機械やらが置いてあるのを眺めた。昆虫を捕まえたり川で遊んだり親戚のお兄ちゃんとテレビゲームをして離れで寝泊まりして、アトリエでの夏はいい思い出ばかりだ。それがちょうど90年代の前半〜半ばにかけてだったと思う。塩田千春が助手をしていたのもだいたい同じ時期。もしかしてアトリエで見かけていたのかもしれないなー。

 

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出口付近のシアタールームで上映されている高田冬彦の映像作品が笑えます。ただの石を「偉い石」へと昇華させるというプログラムで心を掴まれました。浅草をチンドンで練り歩き何でもない石をあたかもご利益でもあるかのように通行人になでなでしてもらうという内容です。塩田ワールドから阿呆らしい俗世へときっちり戻ってからの六本木散歩がオススメです。

 

(そ)

 

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みそみそは絵描きと刺繍作家のユニットです。

刺繍作品を販売中なのでよろしければご覧くださいね。

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