みそ誌

刺繍と絵画の二人組-misomiso-がお送りします

映画「海獣の子供」

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五十嵐大介原作漫画「海獣の子供」がまさかのアニメ映画化ということで喜び勇んで(少し心配しながら)観に行った。上映後、近くの席に座っていたカップルが「よく分かんなかったね、言いたいことは分かったけど。。」という会話をしていた。(それでいいじゃないか。。)とも思うけれど、確かに原作を読んでいないとなかなか理解しがたい内容だとも思う。以下、原作を含むネタバレ有の簡単な解釈です。

 

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この話はクライマックス、つまり誕生祭の意味づけから考えられた物語だと思う。誕生祭は宇宙、地球、海、動植物(人間を含む)、細胞、、マクロ〜ミクロの全存在は「世界」の中の「個」である、と同時に「世界」の一部分としても成立しているという思想を表すための象徴的な儀式だ。五十嵐氏のこの「同時に複数の状態であることを許す」考え方を私はなかなか気に入っている。

 

物語の序盤で海に導かれて瑠花は「人魂」を見る。「人魂」は物理的には「隕石」であるが、象徴しているものは「精子」だ。瑠花の役割は祭の目撃者であり、だからこそ海は瑠花に誕生の祭の始まりの瞬間を見せた。(この時の「人魂」が二つだったのはなぜだろう?競争に敗れる精子のメタファーか)

 

隕石は海のどこか(小笠原沖?)に落ち、空に発見され、瑠花へと受け渡される。やがて瑠花は女神の模様を持つ大鯨に飲み込まれ、その体内(鯨の、そして流花の体内)で鯨のソングと隕石は共鳴する。卵子精子の出会いである。誕生祭が始まる。映画版では誕生祭はべらぼうに壮大な映像世界(すごかったね。。)が繰り広げられるが、その中には細胞分裂のイメージが織り交ぜられている。

 

ところで誕生祭ではいったい何が誕生したのか。魚たちから発せられた光は他の生き物によって食べられている。それは個体レベルで見ると新たな子を産むために必要な栄養のようなものを取り込む行為なのだろう。しかしその光の一つ一つはまるで星の光であり小さな宇宙のように描写されており、宇宙を主体に見ると体組織の一部の生まれ変わりである。つまり「誕生」は個にとっては新たな生命を宿すことだけれど、同時に全体にとっては「循環」の意味合いを持っている。誕生祭は子の誕生と宇宙の循環とを引っくるめた祝いだと思う。

 

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映画版は五十嵐大介の世界観をヴィジュアル面でも思想面でも表現した素晴らしい出来だけれど原作の重要なエピソードを大幅に削っている。ただしそれらのエピソードを補填すればすっきり分かりやすくなるというわけではなく、要素が増えてさらに複雑に感じるかもしれない。人によって解釈が分かれる、それでも解釈せずにはいられない作品こそが名作だと私は思う。自分の考えで作品を味わいたい方はぜひとも原作を読んでください。

 

(そ)

 

 

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みそみそは絵描きと刺繍作家のユニットです。

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